shiroyakoの日記

思いついたことを徒然に

20211021:投票にいきましょう(その2)

こんにちは。白野狐です。縁あって一回目のワクチンを接種することができました。誠にありがたいことです。腕が腫れあがりましたが、それ以外の副反応はいまのところないようです。「賢くなった」とか「モテるようになった」とかの副反応であればもっとよかったのですが、そこまでは望みますまい。

 

さて、今回のお題は「投票にいきましょう」です。「てんかのいくさ」には触れないのがこのブログの方針ですので「○○さんに一票」とか「××党に投票しましょう」なんて話はいたしません。有権者の皆様それぞれの判断で選ぶことです。

 

前にこのお題でこのブログを書いたときには、「投票率が低いのはなぜでしょう」という疑問から始まった、と記憶しております。折しも一昨日、衆議院選挙の告示がありましたので、それについての雑感を一文にまとめようと思います。

 

今回の選挙では、私ども庶民に「分配」されるもの(ってほぼお金ですが)が主な争点となっているそうです。もちろん、「分配が増えること」は即「食いつなげる期間が伸びること」を意味しますから、素直に大歓迎です。ぜひぜひ頑張っていただきたいところです。

 

実際のところは「分配が増えた」ところで生活は変わらないでしょう。このブログで何度も書いているように「お金のかかることには手を出さず、勤倹貯蓄に励む生活」は続けなくてはなりません。「貧して諂わず、富んで驕ることなき」がよろしい、とは古人も言っているところではあります。ただ、「貧を楽しみ、富んで礼を好む」方がなおよい、と続いているのですが、私ども庶民としては「貧を楽しむ」境地にはなかなかたどり着けませんので、せめて「貧して諂わず、富んで驕ることなき」ぐらいにはたどり着きたいものです。また、「貧しきてへつらわざるものはあれども、冨みておごらざるはなし」などという道元禅師の教えもありますから、むやみと生活水準をあげることも考えものです。ほそぼそとつましく暮らしてゆきましょう。

 

私ども庶民にとって「食いつなげる期間」=「日本の将来」です。ですから、「日本の将来を決める選挙」は「食いつなげる期間をどれほど伸ばせるか、を決める選挙」となります。ずいぶんとレベルの低い話ですが、現実的にならざるを得ないでしょう、となるとこのレベルです。少なくとも私は。

 

そこで、「投票に行きましょう」です。私ども庶民が「少しでもほそぼそと長く食いつなぐために」きちんと考えて投票しましょう、ということです。「他人の決めたこと」に振り回されるのは、お金や時間といったリソースの少ない私ども庶民にとってはできれば避けたいところであります。必ずしも思い通りの結果となるとは限りませんが無策よりは幾分マシでしょう。

 

この世界に暮らす皆様のご健勝をお祈りいたします。より良い世界になりますように。

 

BGM:パガニーニヴァイオリン協奏曲第1番

   ジノ・フランチェスカッティ:ヴァイオリン

   ユージン・オーマンディ:指揮

   フィラデルフィア管弦楽団

 

 

20210921:「幸福な家庭」をつくるために

こんにちは、白野狐です。コロナ禍も最近は新規感染者が減少しつつあるそうで、行政府の発表ですから話半分に受け取っておくのが無難とは思いますが、事実なら何より。

 

幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。

 

ロシアの文豪トルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭の言葉です。うろ覚えなので細かいところは間違っているかもしれませんが、主意は合っていると思います。今回はこれを参考に「幸福な家庭」のつくりかたについて思いついたことをまとめてみます。

 

実際のところ、このトルストイの言葉はほぼ真実とみてよいでしょう。「幸福な家庭」が様々な条件から成り立っているためです。話を簡単にするために、「幸福な家庭」が次の三つの条件から成り立っているものとしましょう。

 

1:経済的に問題がない(以下「経済」といいます)

2:健康状態に問題がない(以下「健康」といいます)

3:人間関係に問題がない(以下「関係」といいます。期せずして3Kとなりました)

 

この場合、「幸福な家庭」は「経済:〇」、「健康:〇」、「関係:〇」のひととおりしかありませんが、「不幸な家庭」はつぎの七とおりです。「〇」は「問題なし」、「×」は「問題あり」と読んでください。

 

1:「経済:×」、「健康:〇」、「関係:〇」

2:「経済:〇」、「健康:×」、「関係:〇」

3:「経済:〇」、「健康:〇」、「関係:×」

4:「経済:×」、「健康:×」、「関係:〇」

5:「経済:〇」、「健康:×」、「関係:×」

6:「経済:×」、「健康:〇」、「関係:×」

7:「経済:×」、「健康:×」、「関係:×」

 

条件が三つだけでも、ひととおりの「幸福な家庭」に対して七とおりの「不幸な家庭」ができあがります。実際には、「経済」だけでも「教育費が…」、「住宅ローンが…」、「老後の生活費が…」といった「問題のありかた」がありますし、「健康」や「関係」でも「コロナをわずらった」とか「交通事故で怪我した」とか「嫁と姑の仲が悪い」とか「子供が学校でいじめにあっている」とか、人間の世界は問題が多すぎて、全部「〇」なんて家庭はなかなかないだろうな、とは思います。一件の「幸福な家庭」に対する「不幸な家庭」の種類の数は、つぎのような式で表すことができます。

 

「不幸な家庭の種類の数」=2×2×…(条件の数だけ2を掛け算する)ー1

 

最後の「ー1」が「幸福な家庭」に相当します。条件が3つなら2×2×2ー1=7でさっき見たように合っています。条件が5つに増えただけで31とおりの「不幸な家庭」ができてしまいます。ざっと4倍というのは2を掛け算する回数が2(=5-3)回増えるからですが、ものすごい増え方になることはお分かりかと思います。

 

さて、こうなると、「幸福な家庭」のつくり方は明らかです。「幸福になるための条件」を減らせばよいわけです。「勤倹貯蓄」と「健康的な生活」及び「最小限の人間関係」を維持することによってより「幸福な家庭」に近づくことができ、そのような生活は私ども一般庶民の生活とはきわめて親和性が高いように見受けられます。

 

何度も同じことを書いておりますが、私の願いは万人のそれと同じく「死後の魂の救済」です。この世界を幸福に過ごすことで感謝の気持ちをいだくことができれば、少なくとも「魂の救済」にとって悪い方向にはならないと思います(証拠はありませんが)。

 

今回の一文が皆様の幸福につながれば幸いです。祝福ありますように。

 

BGM:メンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド

   ペーター・マーク:指揮

   ロンドン交響楽団

 

 

 

20210830:コロナ禍について雑感

こんにちは、白野狐です。とりあえずオリンピックは終了しました。まずは何より。ところが、コロナ肺炎の流行は全然納まりません、どころかもう収拾がつかないのでは。というような状況です。自分がまだ罹っていないのが奇跡のようです。神に感謝。

 

さて、現在のところ有効そうな対応策はワクチンしかなさそうですが、私としてはまだ接種しておりません。予約もとっていない状況です。前にも書きましたが、他人を押しのけてまで急ぐことではありませんし、これほどコロナ肺炎が猖獗を極めるなかでこそ、「ゆずりあいの気持ち」を忘れたくないものであります。ほかに接種を急ぐ事情の方がおられましたら、喜んで先を譲りたいと思います。とはいえ、内心ビビりまくりですが、いまどきはあまりない「勇気」の出しどころではないかな、とも思います。こんな「勇気」でもよければ。

 

このように、ウイルスに対してノーガードなものですから、生活態度によって防衛するほかありません。外出をなるべく控えて食事、睡眠および休養を十分とる、手洗い、うがいを欠かさない、といったことですが、これらはここ一年以上続けていることですから「変わらないといえば変わらない」ことであります。何度も同じことを書いておりますが、これは事態が進展しない証左ですから致し方ありません。

 

このように注意をしていても「罹るときには罹る」ものとは承知しております。「罹って死ぬ」のは個人としては避けたいところですが、寿命であればいたしかたないのかな、と諦めがつけば「それもあり」です。

 

「いずれ死ぬこと」は避けようがありませんから、嫌がっても仕方がありません。問題は「どんな死に方」をして「死んだらどうなるのか」です。特に後者「死んだらどうなるのか」は、個人的には最大の関心ごとで、というか「死後の魂の救済」は万人の願いでしょうから誰でも最大の関心ごとであるというふうに考えております。

 

さて、今回のお題は落語の「死神」を聞いたところからの思いつきです。この噺の教訓は「人の寿命をいじくりまわしてはならない」ということだと思います。「治るひと」は「あじゃらかもくれんきゅうらいす。てけれっつのぱー」と唱えて手拍子二回でも治りますが、「治らない人」はどうしようもありません。詳しくはこの噺を聞いていただくこととして、「寿命を受け入れること」も大切なことと思います。あとは「魂の救済」があることお祈りいたします。

 

ほんとにこのコロナ禍、どうなることやら。皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。あとは魂の救済も。

 

BGM:モーツァルト レクイエム

  ミシェル・コルボ:指揮

  ジュネーヴ室内管弦楽団

  ローザンヌ声楽アンサンブル

 

 

20210710:白野狐の大予言??

こんにちは。白野狐です。またまた緊急事態宣言の発動ということで、なかなか先の見えない暮らしが長いこと続いております。皆で力を合わせて乗り切っていけたらいいな、と思います。

 

「先が見えない」と申し上げましたが、そこで「予言」をひとつ思いつきましたので、忘備のために一文にしておきます。こんな予言です。

 

「今年はメダルラッシュが発生する」

 

オリンピックのことではありません。「日本人選手がメダルをいくつとった」なんてことは、なんでもどころかどうでもいいことですから特に興味はありません。ただ、オリンピックには無関係ではなくて、この予言の成就には「オリンピックが中止にならないこと」が条件となります。

 

さて、「オリンピックに参加する人」はなぜ参加するのでしょう。「お金」、「名誉」はたまた「興味本位」などというところでしょうか。どれも「不要あるいは撤退可能」であり、明らかに「命のほうが大事」というのが普通の感覚と思われます。

 

このような「理由」によってオリンピックに参加して、コロナウイルスをもらってお亡くなりになった場合、「ダーウィン賞」にノミネートされたりしませんか?というのがこの「予言」の内容です。「該当者」がぞろぞろ現れて空前の「ダーウィンメダルラッシュ」が発生するでしょう、という「予言」です。より丁寧に書き下すと次のようになります。

 

「参加しなくてもよい危険なオリンピックにあえて参加して、結果としてコロナウイルスによって死亡する」という理由による「ダーウィン賞受賞者」が多数現れる。

 

もちろん、こんな「予言」は当たってもうれしくありませんし、外れてくれたほうがどれほどありがたいかわかりません。私にもメリットはなにもありません。ただ、「思いつきを忘れないうちに綴っておく」というこのブログのポリシーにしたがって記したまでです。

 

しかしながら、こんな「予言」が「予言」と言えるでしょうか。私たちは皆、赤信号の前では待ちますが、これはすぐに「青信号に変わる」ことを知っているからです。でも、「知っている」のは別に私たちにノストラダムスエドガー・ケーシーのように予知能力のような超能力が備わっているためではなく、「そのように信号機が設計されている」という一般常識が備わっているためです。今回の「予言」も、特に超能力の産物ではなく、「常識的な推論」と考えたほうが、すんなり腑に落ちることと思います。

 

このコロナ禍はいつまで続くのでしょうか、どうせ「予言」するならこういうことを「予言」できるといいのですが、すみません、無理です。皆さまのご健勝をお祈りいたします。

 

BGM:アルビノーニ 弦楽とオルガンのためのアダージョ

   ヘルベルト・フォン・カラヤン:指揮

   ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 

 

 

 

20210701:オリンピックについてお願い

こんにちは、白野狐です。早いもので一年の半分が過ぎてしまいました。あと半年、皆様のご健勝をお祈りいたします。

 

さて、コロナ肺炎ですが、一向に収まる気配がありません。最近ではまた感染者が増加しているとか。そのような状況下でほんとに「オリンピックしかも観客付き」なんて実行するのかしらん?とはいえ、今度の東京都議会選挙の各党の主張をみると半分ぐらい「実行する」とのことで心細いかぎりです。

 

もちろん、オリンピックが開催されれば世界中から人が日本に出たり入ったりするわけですから、ウイルスも日本から出たり入ったりすることでしょう。あまり見たい風景ではありませんが、オリンピックの関係者にとってはあまり関係ないようです。

 

さて、この事態に対して、私ども庶民としては「できるだけ外出を控える、食事睡眠など健康に留意する、手洗い・うがいを欠かさない」といった行動様式によって対応する以外には対処方法はありません。これはここ一年以上続けていることですから、「変わらないといえば変わらない」ことでもあります。

 

とはいえ、生存のためには外出が必要となることがあります。通勤通学や買い物などなど。この状況下で最も恐ろしいのは「選手、ボランティア、観客その他関係者」(以下、単に「オリンピック関係者」とここでは呼びます)などに遭遇することです。ことに最近の新種のウイルスは感染力が非常に強いと聞いております。できれば、このような事態は避けたい。

 

政府は「選手は選手村から出さない」とか「観客は直行直帰」とか言っておりますが、実現は「普通に無理」です。つまり上記のような事態は「あるのが普通」と考えるのが普通です。

 

ここで恐ろしいのは、私ども庶民から見て「誰がオリンピック関係者で誰がそうでないのかわからない」ことです。これではうかうかバスや電車には乗れませんし、レジに並ぶのも恐ろしい。

 

そこで、政府かJOCか誰にお願いすればよいのかわかりませんが、庶民の「お願い」として、「オリンピック関係者は外見によってそれとわかるようにしてください」という「お願い」です。

 

方法はいろいろ考えられますが、「服装」のような着脱可能のものはよろしくありません。いちばんお手軽かつ確実なのは、オリンピック関係者の頭部全体に発光性の塗料を塗布する方法です。「発光性」と書いたのは夜間の視認性を高めるためであり、頭部全体と書いたのは全体的に視認性を上げるためです。マスクによって見えないと困りますから。すくなくとも、コロナ肺炎の流行が終息するまでは洗顔などによって色落ちするものでないことが条件となります。これにより、私ども無関係の庶民は「オリンピック関係者」との接触をかなり防止できるのではないでしょうか。このような塗料を頭部につけた人を見かけたなら、避けて通ればよいわけです。

 

もし、この案に反対するとすれば理由はなんでしょうか。これによって選手のパフォーマンスが落ちるとは思えませんし、この種のスポーツ大会に顔面にペインティングする応援者がいることはよくテレビで見かけるところです。ですから、顔面ペインティングに対する抵抗もないでしょう。私ども庶民も若干周囲の警戒が必要とはなりますが、以前よりは安心して外出できます。どうしてもイヤな人は「オリンピック関係者」にならなければよいわけで観客やボランティアの方々であればそれは容易なことと思えます。というわけで「無茶な要求」にはあたらないと考えますがいかがでしょう。

 

この世界を生きる皆様に祝福ありますように。

 

BGM:ベートーヴェン交響曲第8番

   ハンス・シュミット₌イッセルシュテット:指揮

   ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

 

 

20210601:ワクチンの接種について

こんにちは、白野狐です。コロナ肺炎ですが、ようやくワクチンの接種が始まったとのことで、素直に吉報ととってよいでしょう。外国の製薬会社は大したものです。1年もたたずに「有効なワクチン」が開発できるのですから。

 

個人的には、私のワクチン接種の順番はかなり後のようで、スマートフォンで確認したら「7月下旬から」なんて表示されました。前にも書いたと思いますが、他人を押しのけて急ぐことではありませんし、個人的には日本どころか人類最後の接種でもかまいません。ほかに急いで接種したい事情の方もおられるでしょうし、そのような方々へ「どうぞお先に」。

 

世間では、ワクチン接種の順番は「医療従事者、それから高齢者及び基礎疾患を有する者」が最初のようで、「オリンピックの選手」が別枠で受けられる、とのことです。先に書いたように個人的にはなんとも思いませんが、これを聞いて思い出したことがあるので、それを一文にしてみようと思います。

 

唐突ですが、「タイタニック号」です。あの船が沈没するときに、救命ボートに乗る順番は「女性、それから子供」だったそうです。実際にそれが守られたかどうか知りませんが、女性の生存率は男性のそれに比べて圧倒的に高かったそうですから信じてよいでしょう。そのほかに「ボートの漕ぎ手」として「屈強な男性」を優先的に乗せたそうですが、「ワクチン接種」でいう「医療従事者」に相当する考え方と思います。

 

もちろん、「乗員数の半数分しか用意されていない救命ボート」と「全員分いきわたることになっているワクチン」を同列に論ずることはできませんし、「乗らなければほぼ確実に死ぬ救命ボート」と「接種しなくても死ぬとは限らないワクチン」という点でも同列に論じることはできないでしょう。そのほかにも、「この場だけを切り抜ければよい救命ボート」と「今後も長らくお付き合いすることになるであろうウイルスに対処しなくてはならないワクチン」とか、状況が違いすぎて、「タイタニック号」のことがなぜ思い出されたのかが不思議ですが、私はなぜかこれを思い出しました。

 

もし、同列に論じることができるならば、大変によろしくない状況です。「他の人に先んじてワクチンを接種する人」は、「我さきに救命ボートに乗り込む人」と同義ですから、それが何らかの特権を有するひとであれば、セウォル号やメデューズ号の船長・艦長のように逮捕されてもおかしくありません。タイタニック号のスミス船長はこの事故で亡くなられたそうです(異説ありですが)。彼のご冥福を。

 

それでも、「生き死にがかかったシチュエーション下における人のふるまい」を観察する良い機会をもらったとは考えたから思い出したのでしょう。「どんな人」が「どのような状況下」で「どのようなふるまいをするか」を観察することは、その人の人格を見るうえで非常に有用です。「言葉の重み」がともすれば軽んぜられがちな昨今ですから、私はここに気をつけてニュースを見たり、他人にかかわるようにしています。

 

話はそれますが、このような観点から、テレビを映す人にお願いなのですが、もし、オリンピックが実行されたら、選手よりも観客のほうを多く映してもらえないでしょうか。「どんな人」が選手として参加するのかも興味はありますが、それ以上に廉価でないチケットを入手してわざわざ見に来る人は「どんな人」なのか、(半ば強制的に?)観覧させられる小中学生が「どんな顔」をしているのか、競技よりも私はそのほうに興味があります。あまり良い趣味とは思えませんが、それらを観察するほうが「誰がメダルをもらった」なんて出来事よりは、「モノをまともに考える」習慣を涵養する役には立つでしょう。

 

ワクチン接種で万々歳となることを祈りつつ、今回はここまで。

この世界を懸命に生きる皆様に祝福を。

 

BGM:ブルックナー交響曲第9番

   ヘルマン・アーベントロート:指揮

   ライプツィヒ放送交響楽団

 

20210515:オリンピックについて(その2)

こんにちは、白野狐です。コロナ肺炎ですが、相変わらず収束が見えません。何か自分が罹患していないのが奇跡のようであります。神様に感謝。そしてほかの皆様にも祝福ありますように。

 

最近ですが、非常にイヤなニュースをネットで見たので、その感想を一文にする試みです。「水泳飛び込みのオリンピック前の大会で、食事が弁当とカップ麺だった」というような内容の記事です。

 

選手の方々が、大会中あてがわれた食事が「揚げ物弁当」と「カップ麺」だったので怒り出した、という内容です。これを聞いていかがでしょうか。

 

あなたが子供のころ、出された夕食に文句を言ったらどうでしたか。「ほなら食べんでよろし」というのがまともな親の反応です。世界どころか日本でもその日の食事に難儀する家庭が多々あるというのに、「怒り出す」というのはいかがなものでしょうか。「パンがなければお菓子でも…」というセリフと心根のありようが同じすぎて到底賛同できません。もっともこれはマリー・アントワネットの言葉ではないとの説もあるようですが、皆様いかがでしょう。

 

出されたものはありがたくいただく、いやならその旨丁寧に伝えて辞退する、という当たり前のことができないのでは困ります。このような人物がメダルなどとって将来スポーツ庁長官とかJOC理事なんて顕職に就かれてもお祝いの言葉に困ります。なんて言えばいいのでしょう。今思えば、「新しい競技場を作れ」とか言い出したときから、丁重に、しかしキッパリとお断りしておけば、こういったクレームや「看護師を〇人出せ」とか「ワクチンを優先しろ」なんて無理難題も発生しなかった、と思いますが、「後の祭り」なんて言葉をこんな場面で使うことになるとは、たぶん誰も思わなかったことでしょう。

 

 もちろん、コロナ肺炎が猖獗を極める現状でオリンピックができるのかどうかはわかりません。実行されるとすれば、その参加・辞退の選択は、各選手の方々の「現状を正確に認知する認知能力」と「事の是非を正確に判断する判断力」、さらに「その判断を実行に移す道徳的勇気の有無」にかかっていますから、他人がとやかく言うことではありません。私ども庶民にとって、オリンピックは「どのような国」の「どのような人物」が参加するか、という観察の場としては充分にオモシロいですから、意義を全否定するものではありませんが、あとはその代償が「高くつく」ものにならないことを祈るだけです。

 リスクマネジメントの観点からすれば、こんな「娯楽」のためにリスクはとれない、「実施は無理そう」というのがまともな判断と思いますが、残念ながらこの「判断」は行政府の偉い人とは共有されないようです。それならば、せめて「こんな楽しみ方」はいかがでしょう、という前向きというにはあまりにせこい提案です。ほんと「どんな人」が参加するのやら。

 

コロナはまだまだ続くようです。この世界で懸命に生きる皆様に祝福を。

 

BGM:ショパン練習曲第3番「別れの曲」

   サンソン・フランソワ:ピアノ

 

 

20210501:「学校の先生」について

こんにちは、白野狐です。コロナ肺炎ですが、まだまだ先が見えないようです。日々頑張って生活している皆様に祝福ありますように。

 

今回のお題は「学校の先生」です。折しも先ごろ、文部科学省が「#教師のバトン」と銘打って、教師となる人間を増やすために教職の魅力をアピールする、という取り組みを始めたそうで、それについて思うところを一文にしてみます。「学校の先生」と書いておりますが、ここでは「小中学校の先生」を対象としておりますのでご理解のほどよろしくお願いいたします。

 

最初に私が思ったことは、前にも書きましたが、「子育てはお金持ちの道楽」です。ですから、「お金持ちの子供」を相手にする「学校の先生」も「お金持ち相手のサービス業」で、エルメスのような高級ブランドの販売員とか、レクサスのような高級車のカーディーラーとかと、私の中では同じ位置づけです。もちろん世間にはそのような職業に就く方が一定数必要なことは理解しておりますから、不足することに対して何らかの処置をすることは必要でしょう。しかしながら、文部科学省が音頭をとってキャンペーンというのはどうでしょう。経済産業省国土交通省が「高級ブランド」や「高級車」の販売員を増やすキャンペーンを始めたら(始めてませんけど)と想像するとより分かりやすいかもしれません。それと同じ違和感です。

 

さて、私の想像は先に書いたような典型的な「部外者の思いつき」です。私ども庶民にとっては関係のない世界ですから無理もありません。

 

ところが、現実は私のような凡人の想像をはるかに超えていて、SNSで意見を募ったところ、とんでもない重労働ぶりと待遇の悪さを嘆く声が殺到して「教職の魅力のアピール」どころではないそうです。私も興味本位でTwitterを覗いてみましたがホントにそうでした。「お金持ち相手のサービス業」ってこんなに大変だったのですね。初めて知りました。

 

さて、「学校の先生」は今では「お金持ち相手のサービス業」ですが、本来は憲法で定める「義務教育」の担い手であります。ですから、私にも「学校の先生」と接する機会がありました。今思い返すと、たしかに皆、機嫌が悪そうで、私のような小心の生徒は怯えながら学校で過ごしていたことを思い出します。「当時の学校」は教師や同級生による身体的・精神的な暴力が蔓延していましたから、先生生徒を問わず皆不機嫌そうで、このような場所では、ただひたすら卒業を待つほかありません。

 

このような「学校」にもいいところはあって、すなわち「一度卒業してしまえばあとは永久にコミットしないで済む」というところです。そのためには「学校の先生にはならない」ことと「子供を持たない」ことが必要ですが、これらの条件は比較的達成が容易ですから、あまり心配はいりません。先に書いたような「部外者の思い付き」をのんびり書いていられるのもそのおかげです。

 

そうなると不思議なのは「学校の先生になった人」です。どのような人がなるのでしょうか。学校の先生は「免許が必要なプロフェッショナル」ですから、「頭が悪い人」のはずはありません。「重労働や待遇の悪さ」を嘆く声が殺到していますが、義務教育を受けているときに気がつかなかったのでしょうか、あの先生の「機嫌の悪さ」を見れば気がつきそうなものですが。先に「初めて知りました」なんて呑気に書いてますが、じつは大体想像できてました。ウソ書いてすみません。ですから、「学校の先生」にはなっていません。「能力がないだけだろ」と言われれば反論できませんが、私にとって「選べるときには選ばれない」職業であることも確かです。

 

まだまだ、残念ながらコロナ禍は続くようです。「学校にいたころ」のように怯えながら暮らす日々がまた現れるとは思っていませんでした。皆様も同様と思いますが、乗りきって行きましょう。祝福ありますように。

 

BGM:ブラームス交響曲第3番

   ヘルマン・アーベントロート:指揮

   ライプツィヒ放送交響楽団

20210409:歩行者の嘆き~自転車について(続編)

こんにちは。白野狐です。コロナ肺炎ですが、どうも収まる気配がありません。ニュースを見たら、ワクチンについてオリンピックの選手を優先的に接種するとかしないとか。米国製の有効かつ安全と思われているワクチンを優先的に接種してもらえる「えこひいき」なのか、中国政府から提供の申し出があったらしい、米国製のものよりは正体のわからない中国製ワクチンの「治験に協力」なのか、報道だけではわかりませんから、私個人としても意見はありません。前者なら「オリンピックの選手は軽蔑の対象」ですし、後者なら「オリンピックの選手は尊敬の対象」ですが、どちらなのかわかりません。これほど評価の分かれることですから、ここがわかるように報道してもらいたいものです。オリンピックの選手の皆様のために。

 

あと、今思いついた疑問ですが、「ワクチン接種でベストコンディション」というのは、「ドーピング」とやらには当たらないのかしら。素人の思いつきですので、このパラグラフは読み飛ばしていただいて結構です。

 

ワクチンについて私ども庶民は、ただただ順番を待つだけです。他人を押しのけてまで急ぐことではありませんし、さりとて、「注射はイヤ」と現場でダダをこねて次の人を待たせるのも見苦しいですからしたくありません。痛くないように上手に接種していただければ充分です。

 

話がそれました。これから本題です。前回「20210308:自転車について」と題して「歩道を爆走する自転車の恐怖」について記しました。その続きです。

 

まず、前回書き忘れましたが、「自転車」にはバッテリーを装着したものを結構な頻度で見かけます。つまり「電力」を「推進」に利用しているのです。「おいおいおい、「人力」ならまだしも、「機力」で走るものが「歩道」を走っちゃまずいだろ。」というのが「普通の歩行者の感覚」と思いますが、どうもこの「感覚」は自転車に乗る人には共有されないようです。残念。それともあのバッテリーはヘッドランプの点灯にしか使われていないのでしょうか?それならごめんなさい。

 

一般に、「歩行者」は「自転車」、「自動車」その他移動手段を利用している人々から「ないがしろ」にされているように見えます。その根拠と思しきものをあげていきます。

 

1 押しボタンつきの信号機:

 なぜ、ほぼ例外なく「歩行者」が「押しボタン」を押して「青」になるのを待たなくてはならない設計となっているのでしょう。「歩行者優先」の理念からすれば、「自動車」がいったん停止してドライバーが下車して「押しボタン」を押して「青」になるのを待つ設計となるはずです。「自動車」のほうが速やかに移動できますし、雨・雪も気にする必要はありません。「歩行者」にとって雨の中で信号を待つのはつらい場合があります。

 

2 駐車場の出口の看板:

 駐車場の出口が歩道と交差している場所でよく見かける「車の出入り口注意」の看板のことです。「歩行者」が「自動車」の出入りを確認して通行するのは当然ですが、これだと衝突事故があったときに「歩行者の注意不足」ととられかねません。本来であれば、「自動車」に見えるように「歩行者通行に注意」と「自動車」がわに注意喚起を促す表示をすべきと思います。「歩行者」と「自動車」では衝突事故のときのダメージに差がありすぎます。

 

3 鉄道の踏切:

 これは、実現の可能性が低いとは思いますが、踏切を「渡る歩行者ではなく、電車の方向に遮断機が降りる」設計にしてはいかがでしょうか。これにより、踏切事故は激減し「開かずの踏切」問題も解消すると思われます。

 

いかがでしょうか。前回も同じことを書きましたが、「安全な生活」は万人の願いと信じております。今回の指摘によって、より安全な世界の実現に寄与できればうれしいです。

 

より「安全な世界」となりますように。

 

BGM:ブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」

   アーベントロート:指揮

   ライプツィヒ放送交響楽団

20210308:自転車について

こんにちは。白野狐です。東京都と三県の緊急事態宣言が延長されるとのことで、その是非につきましては、「実態」を知らされない私ども庶民では判断はつきません。延長されてもされなくても、外食・旅行にほぼ関係ない立場としては、暮らしぶりにそれほど違いはありませんから、特に意見はありません。ただ、「実態」を知らせてくださいな、というのは私ども庶民のささやかな願いです。

 

さて、外食・旅行に関係がなくとも、普通に生活していれば外出しなくてはならない場面はいくつもあります。通勤通学や買い物などなど。お金のかかる自動車に縁のない私ども庶民の場合、これら外出の行程にはほぼ必ず「徒歩による移動」すなわち「歩行者となる時間」が発生します。このときに歩行者にとって最も恐ろしい存在が「自転車」です。今回は「自転車」について思うところをおひとつ。

 

歩行者は歩道を「歩き」ますが、自転車は歩道を「走り」ます。ですから、事故の形態としては、ほぼほぼ「自転車が歩行者に衝突する」ことになります。これが怖い。「歩行者」にとっては「自転車」からの一方的な「攻撃」にほかなりません。

 

もちろん、自転車が「歩道」ではなく「車道」を走ってくれれば、この問題はあっさり解決します。なぜそうしないのか?という問題の答えが、「自分たち(自転車)が自動車に轢かれるよりも、自分たち(自転車)が歩行者を轢くほうが望ましい」という、歩行者の立場から見れば全く許容できない選好の結果であるとしか受け取れない、ということがあって、このことが私ども歩行者の大きなストレスの原因となっております。「自分本位がすぎるだろ」というわけです。これでさらに後ろからリンを鳴らされて追い立てられたりしますと、いけないこととはわかっていますが、蹴とばしてやろうかと思います。

 

さきに書いたように、歩道でも自転車は走ります。速度を落としてくれません。これは自転車の原理的な問題ですから、そのままでは改善されません。

 

「自転車が走る」ということは、「自転車が前に向かって転がり続けている」ということだそうです。「前に向かって転びながら同時に他の方向に転ぶことはできない」という物理学の法則(?)によって、自転車が走っている間は右や左に転ぶことはありません。これが、走ることをやめてしまうと、右や左に転ぶヒマができて、右や左に転んでしまう、これが、歩道で自転車が速度を落としてくれない理由で、つまり「自分が転びたくない」という、やはり歩行者としては許容しがたいことではあります。

 

歩行者として不満だけでは、おそらく事態は改善しませんから、何かアイデアを出しましょう。本来であれば「自転車は車道を走れ」だけですが、達成の見込みがどうもなさそうです。自転車がゆっくり移動し、かつ転ばない工夫をすればよい、ということであれば、「歩道を走る自転車のギアを非常に重たくして速度が出ないようにし、かつ転ばないように補助輪の装着を義務付ける」というのはいかがでしょう。これにより、歩行者は安心して歩道を歩行できて、自転車に乗る人も、歩行者をケガさせる可能性をかなり減らすことができる、と良いことずくめであります。

 

「安全な生活」は私を含めて万人の願いであると考えております。異存のある人はおそらくいないと思いますが、今回の指摘が少しでも皆様の安全に寄与できれば私としてもうれしいです。

 

この世界の安全を願う皆様に、少しでも幸せが訪れますように。

 

BGM:タルティーニ悪魔のトリル

   ヘンリク・シェリング:ヴァイオリン

   チャールズ・ライナー:ピアノ