shiroyakoの日記

思いついたことを徒然に

20210215:「少子化問題」??

こんにちは。白野狐です。先週はオリンピック・パラリンピック組織委員会会長のことがいろいろ取り沙汰されていました。「女性蔑視」と認定された人間がその疑念を払拭するために一番有効、というか唯一の方法は性転換手術によって「女性となる」ことでしょう。もちろん、他人が強制することはできません。このことは自発的に実行しないと意義はありません。知ってる限りだれも指摘しないのでひとこと。

 

コロナ肺炎につきましては、ワクチン接種の目途もついたそうで何より。あとは全員に接種するだけです。注射はキライですが、そうもいってられませんでしょう。なぜ経口薬タイプがあらわれないのかは、専門家でもない私にはわかりません。点眼薬タイプや座薬タイプでも注射よりはましなのですが。

 

話がそれました。今回のお題は「少子化問題」です。「問題」といっても行政府その他限られた人々が「問題」といっているだけで、私ども庶民には実感はありません。食い扶持といい、教育にかかる費用といい、子育てにかかる手間ひまといい、子育ては「お金持ちの道楽」です。このことについてはSNSやほかの人のブログなどでさんざ確認することができますので、詳しくはそちらに譲ることとして、このことを前提に思ったことを一文にする試みです。

 

実際のところ、私ども庶民は、日本国憲法に定める「勤労の義務」と「納税の義務」によって、「お金持ちの道楽」に用いられる「時間」と「お金」がどちらも足りていませんから、「子供」は持てません。ですから、「少子化問題」と言われても実感はわきませんし、ましてや「少子化問題の元凶」のような扱いを受けるのははなはだ心外です。

 

少子化問題」の何が問題なのかというと、新聞とか厚生労働省のホームページで調べてみると「将来の社会保障の負担が増える」とか「将来の労働力が減る」とか、「将来のこと」とくに「お金のこと」が多いですから、「将来の生活者」つまり「子供」がいなければ、各個人にとっては「問題」とはなりません。「子供を持たずにお金を使わず勤倹貯蓄に励むこと」によって、個人としては「主観的に、問題とならない問題」とすることができます。私ども庶民にできることはこのことだけです。

 

実際には、「この問題を解決しなくてはならない」と考えている人は、ほとんどいないように見えます。さきに書いたように「問題とならない問題」とほとんどの庶民の皆様が捉えていて、それよりも「普段通りの生活」を維持することのほうが決定的に重要ですから、他人様の道楽には、「邪魔はしないが、見習いもしない」という「当たり前」の態度をとるのが「当たり前」ということです。

 

少子化問題」は典型的な「問題意識の共有に失敗した問題」の例としてあげられるでしょう。人生のなかでは様々な「問題」に直面しますが、問題の(解決の必要性を含めて)対処の方策を考える際の参考となれば幸いです。

 

まだまだ、コロナ禍は続くようです、皆様のご健勝をお祈りいたします。

 

BGM:ブルックナー交響曲第9番

   カール・シューリヒト指揮

   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

20210122:ちょっとした妄想の続き

こんにちは。白野狐です。コロナ肺炎が「猖獗を極める」なか、皆様力を合わせて生きてゆきましょう。このような皆様に祝福ありますように。

 

以前、「20200319:ちょっとした妄想」なんて文章を書いております。中身は大したことなくて、コロナ肺炎がはやっていてオリンピックの開催が危ういので日本人だけでやったら、という思いつきを書いただけですが、実現しそうにないです。この状況下ではそれもおぼつかないでしょう、ということで次の思いつき、というか妄想です。よくもこうくだらないことを次から次へと、というつっこみは覚悟のうえで、「ではどうすればオリンピックを開催できるか」という思いつきを書いてみます。私にとってオリンピックはこのような「思いつきの対象」でしかありませんが、「開催できれば万々歳」な人々にとっては参考になったりして。まさか。やめてくれぇ。

 

以下はホントにくだらないですから本気にしないでくださいな。

 

実際のところ、最大の障壁は「コロナ肺炎」です。この点に異論はないという前提での話です。うっかり(でなくても)普通に開催したのでは選手や観客や事務方やボランティアの方々の間に「コロナ肺炎」が蔓延して、これでは当然よくありません。そうでなくとも、「いつ感染するか」おびえながらでは競技に身が入らないことでしょう。

 

ここからが妄想です。この世界には「いつ感染するか」怯えないですむ方々が相当数おられます。すなわち「すでに感染している人」です(良いことではありませんが)。であれば、「コロナ陽性」であることを選手、観客、事務方およびボランティアの参加要件にしてはどうでしょう。というのが今回の思いつきです。くだらないでしょ。

 

もちろん、こんな「オリンピック」を街中でやられたのでは、私ども一般市民は大迷惑です。どこか離れた場所を「東京都」に求めるとすれば、最近できた東京都小笠原村「西ノ島」でするのはいかがでしょう。きれいな空気ときれいな海に恵まれていて、最近できたので生態系もまだ固定していないでしょう、街中の汚れた空気のなかで走ったり、東京湾の汚れた水のなかで泳ぐより数段快適かと。

 

でも、「コロナ陽性者」がフルマラソン完走したり、何かの競技で世界新記録を打ち立てたりしたら、それこそ文字通りの意味での「人類がコロナに打ち勝った証」だとは思いませんか。私個人は選手の方々に生命の危険を冒してこんなことをしてほしくはありません。「人類がコロナに打ち勝った証」という言葉がキライなので正しい使い方はこれしかないだろ、のイヤミのつもりです。この言葉ほんとやめてほしいです。

 

今回は「どうでもいいことにはくだらない提案」の一例です。人生のなかで「くだらない提案」しかでない問題は、「その問題の重要性」から検討したほうがよい場合があります。昨今のオリンピックの開催云々をみてこのことを思ったので今回一文としました。皆様の人生のご参考となれば幸いです。

 

繰り返しになりますが、コロナ禍のもとで生きてゆく皆様に祝福ありますように。

 

BGM:レハール メリー・ウィドウ

   カラヤン:指揮

   ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

20210111:コロナウィルスについて思うこと(その2)

少し遅れましたが、あけましておめでとうございます。白野狐です。今年もよろしく、は定型句ですが、去年はとても「よろしく」とはいえない一年でした。コロナウィルスに振り回された一年でありまして、これは皆様と一緒と思います。というわけで、新年のご挨拶にはふさわしくありませんが「おつかれさまでした」といったほうが適切かと。

 

とはいえ、コロナウィルスですが、まったく収まる気配がありません。感染者数は、日に日に増加傾向で、だれも「流行にのりおくれまい」とはしていないはずですが、増え続けています。

 

私ども庶民としましては、従来どおりの対策を個別に続けるしかありません。うがい・手洗いといった日常の動作を欠かさないことと、食事、睡眠と適度な運動をきっちりとるしかできることはありません。皆様も同様と思います。

 

この状況下で、行政府の偉いひとから、「国民の皆様のご協力をお願いします」といわれると、ムッとするのは私だけでしょうか、宿題をしている最中に親から「宿題をちゃんとやりなさい」といわれたような。

 

親は宿題を手伝う義務はありませんが、行政府は疫病対策をする義務があるでしょう。ところが、これがどうもうまくいっていない。つまり感染者が増加つづけている、という現象となってそれがあらわれている、ということのようです。「てんかのいくさ」については触れない、というのがこのブログのお約束ですので、個々の政策についてとやかく言うことは控えます。今回、いいたいことは別にありますので。

 

行政府の政策については、「後手後手」、「場当たり的」、「効果が疑問」等々さんざんないわれようで、この状況下では無理もありませんが、これらの評価の詳細についてはニュース、ほかの人のブログ、SNSなどに譲りますのでそちらをご確認ください。

 

総じていえることは「リスクマネジメント能力が足りていない」ということでしょう。「リスクマネジメント」は行政府の最大の業務、といいいますか唯一の業務だと私も思いますので、庶民のひとりとして私も心配しております。税金をまじめに払っているので相応の成果は上げてほしいところです。

 

ここからが、今回いいたいことです。とりあえず、「リスクマネジメント能力の欠如」が明らかになりました。これはこれで改善を期待したいところですが、それとは別に「憲法第九条」があってホントによかった、というのが正直な感想です。この「リスクマネジメント能力」でホントに戦争やられたらどんな作戦指導をされることやら。「リスクマネジメント能力」には「適切な戦略目標を設定する能力」がまず第一ですが、これが心許ない状況下では、「とりあえず戦争を開始」したりしかねません。先の大戦がまさにそれですので、心配を込めて今回一文とした次第です。

 

今回、コロナウィルスから教訓を引き出すとすれば、この「リスクマネジメント能力の欠如」が明らかになったことでしょう。反省もなく教訓も生かされないとすれば亡くなられた方々が気の毒すぎます。「憲法改正論議ができるほど私たちは賢くない」ということの再認識が必要と思います。

 

コロナウィルスの蔓延については先が見えません。変異種まででてきたとか。つらいことの多い人生ですが、皆で助け合ってのりきってゆければ、と思います。皆様に祝福ありますように。

 

BGM:ヴェルディ レクイエム

   トゥリオ・セラフィン:指揮

   ローマオペラハウス

20201127:Gotoキャンペーンについての雑感

こんにちは、白野狐です。これからの寒い冬、コロナだけでなくほかの病気にも注意して乗り切ってゆきましょう。皆様の幸運をお祈りしております。

 

今回のお題は「Gotoキャンペーン」です。旅行や外食にお金を使うときに割引してもらえる、という内容と理解しております。それ以上のことはわかりません。

 

「それ以上のことはわかりません」のは、関係がないからです。実際のところ、「旅行や外食の関連業界で働いている人」以外の人で、これに関心があるのは「旅行や外食に行こうとしている人」がほとんどでしょう。そして「旅行や外食に行こうとしている人」は「お金と時間が余っている人」とほぼ同義ですから、私どものような庶民とは関係がありません。

 

さて「関係がない」のに「お題」にとりあげるのもヘンテコですが、これも新聞テレビのニュースのおかげです。つまり、これだけコロナ肺炎が蔓延しているときに旅行や外食を推奨する行為はいかがなものか、という指摘があって、疫病の蔓延は、私ども庶民もとりあえず生きてゆかなくてはなりませんから無関心ではいられない。ということです。通勤通学や日常の買い物など、ほかの人が集まる場所に行かなくてはならない場面が日常生活にはいくつもあって、それらはできるだけ安全に達成したい、というのが私も含めて庶民のささやかな願いです。この願いに異論はないと思います。

 

Gotoキャンペーンがコロナウィルスの拡散にどれほど寄与しているのかは、私にはわかりません。常識的に「人が移動すればそれだけリスクは高まるんだろうな」という推論はできますが、証拠は示せません。

 

政府によれば「Gotoキャンペーンによるコロナ拡散の証拠はない」とのことで、「推定無罪」の使い方を間違っているような気もしますがとりあえず「続行」とのことです。一方、地方自治体の方からは「やめてくださいな」の意見が多いようです。

 

このお話で不思議なのは、「Gotoキャンペーンを利用する人」です。要するに、Gotoキャンペーンを利用して(しなくても)旅行や外食にいけば、コロナウィルスをまき散らしたり、もらってきたりするかどうかは誰にもわからないけれども、「充分にありそうなこと」なわけで、これの「ある・ない」をめぐって不毛な水掛け論が続いているというのが問題の本質に見えますが、それであればなぜ「Gotoキャンペーンを利用する」のかしらん、というのが関係ない私ども庶民の疑問です。

 

疑問というのは、これは典型的な「瓜田李下」の問題に見えるからです。「他人から疑いをかけられるような行動は慎みましょう」という「あたりまえの心がけ」です。Gotoキャンペーンの性質上、「生活の必要に迫られてやむなく利用せざるを得ない人」がそんなにたくさんいるとは思えません。先に書いたように「お金と時間が余っている人」がほとんどでしょう。「政府の勧めにしたがって」という言い分もあることでしょうが、ここはひとつ、利用する前に今一度「瓜田李下というあたりまえの心がけ」に思いをいたしていただきたい、というのが私ども庶民のささやかな願いです。

 

なにかと不自由なこの世界ですが、皆様の幸福とご健勝をお祈り申し上げます。

 

BGM:ドビュッシー夜想曲第3曲シレーヌ

   バレンボイム:指揮

   パリ管弦楽団

   パリ管弦楽団合唱団

 

20201118:女性の活躍する社会をめざしましょう

こんにちは、白野狐です。アメリカ大統領の選挙もおわって、終わったんですが決まらない、というわけのわからないことのようです。事実上の属国民である私どもにとっても他人事ではありません。アメリカ合衆国日本州にでもなれば、ものすごい数の選挙人が送れるのに。なんてよろしくない空想をしてしまいました。謹んでお詫び申し上げます。

 

今回のお題は「女性の活躍する社会をめざしましょう」です。これは政策目標にもなっているようです。すなわち、みんなが賛成する社会の方向性という理解でよろしいでしょう。もちろん、「女性にうまれてしまった」などという本人にはどうしようもない理由で、社会的な地位や就職その他社会参加に無用の障壁が立ちはだかる、などということは「あたりまえに正しくない」ことですから、このような差別は撤廃すべきでしょう、と私も考えます。

 

ところが、「みんなが賛成すること」の実績が日本でははなはだ心もとないありようだそうです。「世界経済フォーラム」が2019年に発表した「ジェンダーギャップ指数」では日本は世界153ヶ国中121位という、紫式部樋口一葉緒方貞子さんといった偉大な女性を生んだ国としては あまり芳しくない順位です。特に「政治」の部分が144位とよろしくない状況であります。女性の衆議院議員の比率も一割ぐらいしかいない、とのことです。

 

こんなニュースを聞いたので、ここからは思いつきです。比較的速やかに国会議員の女性の比率をほぼ100パーセントまで上げる方法についてです。ひょっとしたらとんでもない名案なのかもしれませんが、話半分に聴いていただければ充分です。

 

日本語には「形からはいる」という言葉があります。外見を整えれば中身もそれにふさわしくなる、ということで物事を達成するアプローチとして「あり」というのが私の理解です。そこで次の提案です。

 

実際のところ、女性の国会議員を誕生させるために非常な時間と労力を要することは素人の私でもわかります。候補者を立てて選挙民の信頼を得て選挙で当選するまでの道のりは非常に遠いことでしょう。

 

ところが、です。「女性の国会議員を誕生させる」ことは極めて困難でも「今いる国会議員を女性にする」ことはどうでしょう。性転換手術の義務付けによって比較的容易に達成できませんか。というのが今回の思いつき提案です。これは「形からはいる」の典型ですから、期待していることは「国会議員の皆様のマインドセットの変化」です。

 

実際のところ、これが実現することによるデメリットは私には思いつきません。もし、国会議員の皆様が「手術を拒否」するとすれば理由は何でしょう。「金銭上」や「健康上」の理由はなさそうですし、「公人」から「手術はイヤ」といった感情的な理由を持ち出されても「???」と思います。

 

もちろん、「形からはいる」デメリットとして事態の本質的な解決につながってはいない、ということは私も認めます。しかし、「女性にならないとわからない女性の気持ちや境遇」を知ることによって、「男性の気持ちや境遇」も知っていた方々により人間的な深みがでて、政治をとおして、よりよい日本どころか世界を作っていただければ、という一庶民のささやかな願いを込めて今回一文としました。

 

今回は、「てんかのいくさ」にふれないように書くことにずいぶん苦労しました。

この世界に暮らす皆様に祝福ありますように。

 

BGM:フランクヴァイオリンソナタ

   ジャック・ティボー:ヴァイオリン

   アルフレッド・コルトー:ピアノ

20201026:「パワハラ」についての雑感

こんにちは、白野狐です。日本学術会議に関する騒動を見ておりますと、「ルイセンコ」なんて人を思い出しました。学問家でありませんからあまり関係ない立場ですが、「歴史は繰り返す」なんてことを、今ここで繰り返してほしくないものではあります。

 

今回のお題は「パワハラ」です。暗い話題ですみません。気をつけようもありませんが、以後気をつけます。何しろ、新聞テレビを見て思ったことを書くのが通例となってしまっているもので、明るいニュースを流して欲しいものです。

 

本題に戻ります。「パワハラ」は「パワーハラスメント」の略だそうで、権力その他力のある人が、それがない人にする嫌がらせのことを指すようです。この定義によれば、私ども庶民はいかなる力もありませんから、当然される側です。

 

人生の中で、普通に通勤通学していれば、職場・学校で同僚、上役、先生や同級生に様々な嫌がらせを受けることは、個人的にも経験済みです。当然、良い思い出ではありません。

 

不思議なのは、「嫌がらせをする人は、なぜそんなことをするのか」です。「する立場に回らないとわからないこと」なのでしょうが、「する人」以外の人から見れば、「ただの一種の同士討ち」です。こういうことをする人は、先に書いたように「権力その他力のある人」ですから、「同士討ち」でないとすると「敵と認定」していることになります。力の無い人を。不思議でしょ。

 

このように、「権力その他力のある人」が「まともに敵味方の区別ができない」ということになると問題は深刻です。「まともに敵味方の区別ができない」のでは大抵の争いごとには勝てません、というか、争いごとすらできないでしょう。私ども庶民がパワハラをする人を見て心配になるのは、実際の被害のほかに「こういう人に力を持たせて大丈夫なのかしら」と思ってしまうからです。判断力が心配になります。他人事ですけど。

 

このように「パワハラをする人」が近くにいて的にされてしまうと、私ども庶民は、力の及ばない範囲に逃げる以外に手段はありません。転校するとか退職するとか。上に書いたように、このような人は「判断力が心配な人」ですから、これを説得その他議論によって止めさせることはほぼ無理筋です。「まともな議論」によって状況を打開するのが理想的ではありますが、残念ながら「まともな議論」には「まともな人としか成立しない」という致命的な弱点があって、「判断力が心配な人」を相手では期待薄です。

 

何度も同じことを書いていますが、私の願いは万人のそれと同じく「死後の魂の救済」です。そのためには、それにふさわしい魂を持たなくてはならないと思いますが、「まとも」はとりあえず大前提ではないでしょうか。「まともでない人で満ち満ちている極楽」というのは、なかなか想像しがたいものがあります。私も含め、できるだけ多くの人々が救われますように願っております。

 

BGM:チャイコフスキー交響曲第5番

   グイド・カンテッリ指揮

   スカラ座管弦楽団

20201013:「自殺」について思うこと

こんにちは、白野狐です。新しい政権を見ていましたら、「ゼークトの組織論」を思い出しました。「勤勉」か「怠惰」かで分ければ間違いなく「勤勉」でしょう。「有能」か「無能」かはいずれわかることと思います。

 

今回のお題は「自殺」です。最近はコロナ肺炎騒動のためか、非常に件数が増えているそうです。もちろん「だれそれが亡くなった」ということを聞けば当然に悲しいですし、もう二度と会えないということですから別れを惜しむ気持ちは抑えがたいものがあります。ことに「自殺」によって亡くなられたということは、亡くなられた方の「意思」によって「お別れ」となったということですから、残された方々の悲しみは察するに余りあります。

 

「自殺がよくないこと」というのは、この「残された方々に悲しみを与える」ということが理由の第一でしょう。「身近な人の死」はなんでも悲しいものですが、「自殺」や「殺人」は、それが人為的に作り出されるものであるがゆえに許容してはならない、というのが、普通の解釈と思いますし、私もその意見には全面的に同意いたします。

 

かなり前に同じことを記しましたが、「人が死んだらどうなるのか」は現在わかりませんから「死後の世界」はとりあえず「ある」と考えるのがまともな考え方と思います。正確に言いますと「ない」場合を考える必要はない、ということです。本当になければ死んだら「(存在が)なくなるので後悔することもない」ということです。したがって、「(死後の世界が)あった場合に魂が救済されるためにどうすべきか」考えなくてはなりません。せっかく「極楽」があるのに行けなかった、という事態はできれば避けたい。「生きている時間」と「それ以外の時間」では長さに差がありすぎます。とはいえ、どうすればよいのかはわかりませんが。

 

話は少しそれますが、「死後の世界はない」という考え方は結構あぶないのでは、と私は考えております。「死後の世界」がなければ、現世がすべてですから「生きている間にやりたい放題」となりかねません。というか、すでになっているのが今の世の中では、と危惧しております。この点で「唯物論」はよろしくないのでは、と思っております。「まともでないほうの判断にオッズを全振りしている」ように見えるのです。

 

話を元に戻しますと、「自殺」です。自殺する人は「死んだほうがまし」と考えて実行するのでしょう、それが正しいかどうかは「死んだらどうなるのか」わからないので誰にも評価できませんが、「死後の世界はない」という考え方がここにも入り込んでいるとすれば危険です。この考えを改めることによって、あるいは自殺を考える方が少しでも思いとどまっていただければ、と思い今回一文としました。

 

何度も書いているように、私の願いは万人のそれと同じく「死後の魂の救済」です。どうすればよいのかわかりませんが、「救済されるに値する魂」となりたいものです。皆様ともども救われることを祈願しております。

 

BGM:バッハ管弦楽組曲第2番

   リヒター指揮

   ミュンヘン・バッハ管弦楽団

20200927:携帯電話料金が下がります(??)

こんにちは。白野狐です。コロナ肺炎の先行きもさっぱり見えません。「発展的解消」なんてなってくれればありがたいのですが。

 

今回のお題は書こうかどうか随分迷ったのですが、覚え書き程度に残しておきます。「てんかのいくさ」に触れないように言葉を選びながら書きますので、もやもやはあると思います。

 

「携帯電話料金の値下げ」のお話です。先に書いたとおり普段携帯電話の電源を切っている私のような人間にはあまり関係ありませんが、それでも値下げはありがたいことです。ただし、現象としてはありがたいことですが、というのが今回のお話です。

 

なぜ、値下げを政府が主導するのか、ということは個人的には不思議に見えます。「高すぎるから」ということらしいですが、それでしたら「高すぎる」ものは他にいっぱいあって、「住宅」とか「自家用車」とか、とても庶民には手が出ません。こちらを「最大四割値下げ」していただいた方がありがたいです。といいますか、購入価額を十分の一程度まで下げていただきませんと手が出ません。普通の家が「何千万円」なんて普通に無理でしょう、「何百万円」ならどうにか検討の余地がある、といったところです。

 

もちろん、このような願いが叶うとは考えておりません。私が「不思議」なのは別なことです。「ものの値段を政府が決めるということが本当にできるのかしらん」ということです。これが可能なら寛政の改革天保の改革も失敗しなかったでしょう。松平定信公や水野忠邦公がとりわけ無能だったとは思えません。

 

普通に考えれば、「携帯電話料金を含め物価を下げる」よりは「生活に支障ない水準まで所得水準を上げる」ことの方が政府の努力目標としては適切でしょう。ことに今回の総理大臣は「自助」など努力を重んずる方と報道などで聞いております。

 

「努力」はもちろん「する・しない」は重要ですが、それ以上に重要なのが「努力の方向」だと私は考えております。これに対する異論は、私の貧弱な想像力では考えつかないので、これが仮に正しいとすると、「努力の有無は重んずるが、努力の方向性については、あまり気にしない」という立ち位置は、これを政府とか偉い人に示されると私ども庶民としては困ったことになりそうで、「不思議」と控えめに書きましたが。正直「心配」です。

 

このような状況下では、私ども庶民が自分で「正しい努力の方向」を考えなくてはなりません。消費税が下がる見込みもなく、政府が「高すぎる物価」を抑制する政策をとるのですから、「正しい努力の方向」はおそらく「勤倹貯蓄」でしょう。前回も同じことを書きました。見通しが概ねあっていたので、期末試験で及第点をとった気分です。そこで今回、一文とすることにしました。

 

今回の主張は概ね以上です。その他にも「携帯電話料金の値下げ」には心配なことがあって、各社はどこにコストカットの重点を置くのでしょう。「つながりにくくなった」とかすぐわかることでは怒られてしまいますから、「セキュリティ」とか「すぐにはわからないけれども最も重要なところ」でコストカットしそうで心配になります。強制的な値下げのように「無理やり押し付けられた仕事」にインセンティブが働かないことはよくあることですので、備忘のために一応記しておく次第です。

 

この一文が、私ども庶民が、そこそこ満足な水準で生きてゆくための「正しい努力の方向」を考える一助となれば幸いです。皆様のご健勝をお祈りいたします。

 

BGM:シューマン交響曲第4番

  クナッパーツブッシュ:指揮

  ウィーン・フィルハーモニー交響楽団

20200831:「貯蓄」から「投資」へ??

こんにちは、白野狐です。コロナ肺炎につきましては、よろしくないことですがもはや日常の一部と化しております。みなさまのご健勝をお祈りいたします。

 

総理大臣が辞任されるとのことで、次の総理大臣はだれか、などと新聞やテレビでは騒がれているようです。総理大臣の施政がどうだったというようなことについてとやかく言うのは「てんかのいくさ」に触れますから控えます。次の総理大臣がだれ、といったことについてもここでは触れません。

 

見立てとしては、だれが総理大臣になっても、私ども庶民の生活はあまり変わらないでしょう。「家や車や子供といったお金のかかることには手を出さず、勤倹貯蓄に励んで質素に暮らす」、「とにかくお金を使わない」生活様式はずっと続けなくてはならないと思います。これができないと、困窮したときに「自己責任」と突き放されてしまいますから、真剣です。

 

というわけで、先月でしたか「十万円の給付金」をいただきました。誠にありがたいことです。ちょっとだけおいしいものを食べて、あとは謹んで貯蓄にまわしました。おそらく、世間の皆様はほぼほぼ全員貯蓄に回されたことと思います。おそらく、一度きりの給付ですから、恐ろしくて使えません。「あのとき十万円もらったでしょ」、「もう使っちゃいました」では同情してもらえない恐れがあります。最悪の場合「自己責任」と突き放されてしまいますから、「貯蓄」が唯一の「正しい使い道」だと思います。

 

本来であれば、このようにして貯蓄に回されたお金は、銀行など金融機関が「正しく使ってくれます」から、つまり、発展のために有用な事業などに「投資」してくれますから、私ども庶民は「投資」については何も知らなくてよいはずです。最近はコロナの影響かあまり言われなくなりましたが、「貯蓄から投資へ」などとよく新聞に書かれていたのを思い出して今回一文にしました。

 

それにしても、「貯蓄から投資へ」という言葉を聞いて金融機関の人々がどのように思うのかは興味深いことです。政府主導のスローガンとは思いますが、私ども庶民が株や債券に手を出して痛い目にあっても「自己責任」と突き放されるのが目に見えていれば怖くて手が出ません。金融機関の皆様には是非、「投資については任せてください」と胸を叩いていただきたいものです。ほかに本業を抱えながら「有望な投資先を見極めろ」なんてどう考えても無理筋です。

 

今回の主張は「勤倹貯蓄のすすめ」です。先に「二千万円」について書いたときも同じことを言いましたが、政府の要望はどう考えてもこれですし、総理大臣が変わってもおなじことでしょう。「お金を貯める」ことも重要ですが、「お金のかからない生活様式を確立する」ことのほうが最も重要と考えます。私も生活ではついつい無駄遣いをすることもありますので自戒の意味をこめて、今回のまとめといたします。

 

コロナと猛暑、苦しい日々が続きますが、適度に力を抜きながら乗り越えてゆきましょう。皆様に祝福ありますように。

 

BGM:メンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲

  諏訪内晶子:ヴァイオリン

  アシュケナージ:指揮

  チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

 

 

20200707:投票にいきましょう

こんにちは。白野狐です。コロナ肺炎は予断を許さない状況ですが、乗り切っていきましょう。日々がんばっておられる皆様に祝福を。

 

さて、今回のお題は「投票にいきましょう」です。折しも一昨日、東京都知事の選挙がありました。私も有権者なので投票にいきましたが、残念、投票した人は落選してしまいました。お気の毒とはいえ、致し方ないところではあります。結果についてどうこう言うのは「てんかのいくさ」に触れますので控えますが、圧勝ということで多くの人が選んだ人が知事ですから文句は言えますまい。

 

昨今の選挙では、「投票率が低い」ことが問題となっているようです。なぜでしょう?というのが、今回の考察、というよりは感想です。

 

よく、「投票に行かない人は政治に文句をいうな」風の発言をなさる方がおられます。どうも「棄権」というのは評判がよろしくないのですが、「権利を放棄する」ことは別に良くも悪くもありません。各人が都合と信条にしたがってやっていることですから、他人がとやかく言うことではないこと、のはずですが、とにかく評判が悪い。

 

この評判がわるい理由については、実際には明確に説明ができて、「庶民に参政権はいらない」ということが「民意」ととられかねない、ということがあります。私もこれがいやでしぶしぶ投票所に向かうのですが、さりとて都合や信条が理由で投票に行かない人をとがめるわけにはいかないでしょう。

 

さて、できればしたくない投票ですが、これにも明確な理由があります。「選んだら恥ずかしい人が当選する」ということが実際にあるのです。最近もありましたが、公職選挙法違反で逮捕されちゃう人が当選したりするのです。もちろん「こんな人」だと事前に知れれば、そこをよけて投票すれば問題はないのですが、そういった情報は庶民には入手できません。本来、政見放送よりも先に「こういった情報」を開示願いたいものですが、残念、そのようにはなっていません。このような状態でみんな投票所に向かうのですから、意気などあがるはずもありません。普通の神経の持ち主であれば棄権がまっとうな選択となるのも無理もないところではあります。

 

このように選ばれた人が公職選挙法違反とかで逮捕なんかされてしまうと、投票した人は己の不明を恥じる仕儀と相成ります。もちろん、秘密選挙ですから、他人には「他の人に投票した」と言い募ることはできますが、それは自分の心身を蝕みます。人生のなかで「己の不明を恥じる」場面はいくつもあるものですが、できれば避けたいところではあります。「だまされた」とあとから嘆くのは、あまりさわやかな風景ではありません。

 

何が言いたいかというと、「参政権」についてもこのようなリスクをきちんと開示してくださいな、ということです。もちろん「こんな人」が最初から立候補しないのが一番ですが、立候補できるかどうかは、年齢制限と供託金を払えるかどうかだけですから、なんのフィルタにもなりません。リスクを開示して「選んだら恥ずかしい人」に対する対処にご配慮いただければ、皆様ももっと安心して投票できると思いますがいかがでしょう。

 

参政権」は皆様に与えられた(正確には「勝ち取った」)権利ですから、安心して投票できるような世界をつくっていければ、と思います。より良い世界を願って、今回の一文を終わります。

 

より良い世界を、皆様に。

 

BGM:ドヴォルザーク交響曲第8番

   イシュトヴァン・ケルテス:指揮

   ロンドン交響楽団