shiroyakoの日記

思いついたことを徒然に

20201026:「パワハラ」についての雑感

こんにちは、白野狐です。日本学術会議に関する騒動を見ておりますと、「ルイセンコ」なんて人を思い出しました。学問家でありませんからあまり関係ない立場ですが、「歴史は繰り返す」なんてことを、今ここで繰り返してほしくないものではあります。

 

今回のお題は「パワハラ」です。暗い話題ですみません。気をつけようもありませんが、以後気をつけます。何しろ、新聞テレビを見て思ったことを書くのが通例となってしまっているもので、明るいニュースを流して欲しいものです。

 

本題に戻ります。「パワハラ」は「パワーハラスメント」の略だそうで、権力その他力のある人が、それがない人にする嫌がらせのことを指すようです。この定義によれば、私ども庶民はいかなる力もありませんから、当然される側です。

 

人生の中で、普通に通勤通学していれば、職場・学校で同僚、上役、先生や同級生に様々な嫌がらせを受けることは、個人的にも経験済みです。当然、良い思い出ではありません。

 

不思議なのは、「嫌がらせをする人は、なぜそんなことをするのか」です。「する立場に回らないとわからないこと」なのでしょうが、「する人」以外の人から見れば、「ただの一種の同士討ち」です。こういうことをする人は、先に書いたように「権力その他力のある人」ですから、「同士討ち」でないとすると「敵と認定」していることになります。力の無い人を。不思議でしょ。

 

このように、「権力その他力のある人」が「まともに敵味方の区別ができない」ということになると問題は深刻です。「まともに敵味方の区別ができない」のでは大抵の争いごとには勝てません、というか、争いごとすらできないでしょう。私ども庶民がパワハラをする人を見て心配になるのは、実際の被害のほかに「こういう人に力を持たせて大丈夫なのかしら」と思ってしまうからです。判断力が心配になります。他人事ですけど。

 

このように「パワハラをする人」が近くにいて的にされてしまうと、私ども庶民は、力の及ばない範囲に逃げる以外に手段はありません。転校するとか退職するとか。上に書いたように、このような人は「判断力が心配な人」ですから、これを説得その他議論によって止めさせることはほぼ無理筋です。「まともな議論」によって状況を打開するのが理想的ではありますが、残念ながら「まともな議論」には「まともな人としか成立しない」という致命的な弱点があって、「判断力が心配な人」を相手では期待薄です。

 

何度も同じことを書いていますが、私の願いは万人のそれと同じく「死後の魂の救済」です。そのためには、それにふさわしい魂を持たなくてはならないと思いますが、「まとも」はとりあえず大前提ではないでしょうか。「まともでない人で満ち満ちている極楽」というのは、なかなか想像しがたいものがあります。私も含め、できるだけ多くの人々が救われますように願っております。

 

BGM:チャイコフスキー交響曲第5番

   グイド・カンテッリ指揮

   スカラ座管弦楽団