shiroyakoの日記

思いついたことを徒然に

20210515:オリンピックについて(その2)

こんにちは、白野狐です。コロナ肺炎ですが、相変わらず収束が見えません。何か自分が罹患していないのが奇跡のようであります。神様に感謝。そしてほかの皆様にも祝福ありますように。

 

最近ですが、非常にイヤなニュースをネットで見たので、その感想を一文にする試みです。「水泳飛び込みのオリンピック前の大会で、食事が弁当とカップ麺だった」というような内容の記事です。

 

選手の方々が、大会中あてがわれた食事が「揚げ物弁当」と「カップ麺」だったので怒り出した、という内容です。これを聞いていかがでしょうか。

 

あなたが子供のころ、出された夕食に文句を言ったらどうでしたか。「ほなら食べんでよろし」というのがまともな親の反応です。世界どころか日本でもその日の食事に難儀する家庭が多々あるというのに、「怒り出す」というのはいかがなものでしょうか。「パンがなければお菓子でも…」というセリフと心根のありようが同じすぎて到底賛同できません。もっともこれはマリー・アントワネットの言葉ではないとの説もあるようですが、皆様いかがでしょう。

 

出されたものはありがたくいただく、いやならその旨丁寧に伝えて辞退する、という当たり前のことができないのでは困ります。このような人物がメダルなどとって将来スポーツ庁長官とかJOC理事なんて顕職に就かれてもお祝いの言葉に困ります。なんて言えばいいのでしょう。今思えば、「新しい競技場を作れ」とか言い出したときから、丁重に、しかしキッパリとお断りしておけば、こういったクレームや「看護師を〇人出せ」とか「ワクチンを優先しろ」なんて無理難題も発生しなかった、と思いますが、「後の祭り」なんて言葉をこんな場面で使うことになるとは、たぶん誰も思わなかったことでしょう。

 

 もちろん、コロナ肺炎が猖獗を極める現状でオリンピックができるのかどうかはわかりません。実行されるとすれば、その参加・辞退の選択は、各選手の方々の「現状を正確に認知する認知能力」と「事の是非を正確に判断する判断力」、さらに「その判断を実行に移す道徳的勇気の有無」にかかっていますから、他人がとやかく言うことではありません。私ども庶民にとって、オリンピックは「どのような国」の「どのような人物」が参加するか、という観察の場としては充分にオモシロいですから、意義を全否定するものではありませんが、あとはその代償が「高くつく」ものにならないことを祈るだけです。

 リスクマネジメントの観点からすれば、こんな「娯楽」のためにリスクはとれない、「実施は無理そう」というのがまともな判断と思いますが、残念ながらこの「判断」は行政府の偉い人とは共有されないようです。それならば、せめて「こんな楽しみ方」はいかがでしょう、という前向きというにはあまりにせこい提案です。ほんと「どんな人」が参加するのやら。

 

コロナはまだまだ続くようです。この世界で懸命に生きる皆様に祝福を。

 

BGM:ショパン練習曲第3番「別れの曲」

   サンソン・フランソワ:ピアノ