shiroyakoの日記

思いついたことを徒然に

20190430:元号が変わります

白野狐です。お久しぶりです

 

本日をもって「平成」が終わり、明日から「令和」となるそうです。

 

この元号については、特に感想はありません。世間ではそこそこ好評のようです。元号について気にされなくてはならないお方は、天皇陛下だけです。庶民がどう思っても陛下が良ければ良くて、悪ければ悪い。とはいえ、天皇陛下とて、皆に忌み嫌われる名前で呼ばれるのは当然イヤでしょうから、世間での好評はともあれ何より。

 

元号なんて陛下ご自身で決められれば、世間の不評など気にすることもないでしょうに、これは閣議決定で決めるそうで、閣僚や「有識者」のほうがネーミングセンスが良いというコンセンサスはどこからきているのか気になります。愛子さまのご命名されるときにきらきらネームをつけようとして止められた経緯でもあったのでしょうか。

 

庶民にとっては元号はなんでもどころかどうでもいいものですから、こう決まったといわれれば「ハイ、わかりました。」以外にはありませんし、これを強制されるのは、菅官房長官によれば、官公庁だけで民間には及びませんから、あまり影響はありません。元号を西暦に変換するのは、たとえば、「平成12年って、西暦何年だったっけ?」というような場合で、この解法は、「今年が平成31年で2019年だから、2019から31引いて1988年が平成0年(元年の前年)で、それに12を足して2000年が答えです」といった具合です。ここに出てくるのは4桁の整数の足し算と引き算だけですから、小学校の算数で習うことです。この程度の計算が覚束ない人間に行政を任せるのはさすがに不安ですから、官公庁に強制するのは、それなりに筋の通った話だと思います。難しい試験にとおって入省した方々ですから問題ありますまい。

 

実用性の観点で見ますと、庶民にほとんどメリットはありません。どころか「元号変わるのでカードが使えなくなります」なんて特殊詐欺の道具にされたり、官公庁や企業の電算機システム保守整備担当者が振り回されたりと、こんな「実用性」ならないほうがましだと思いますが、元号はなくなる気配がありません。

 

なぜ、「元号制度」がなくならないかは、その「根拠の薄さ」に原因が求められます。つまり、実用性はあまりない、変更するには時間も労力もそれなりにかかる、それなのに「日本の伝統」、「日本の文化」といった普通に考えれば根拠ともいえないような根拠に、「変えることのできる立場のひと」が執着しているので、これを情理を尽くして説明して変えさせることは絶望的に困難であり、そんな手数をかけるぐらいなら今のままでいい、と皆が考えているのでしょう。こんな手数をかけるよりも、お年寄りが特殊詐欺にかからないように用心したり、官公庁や企業の電算機システム保守整備担当者がしばらく辛抱するほうがまし、ということのようです。

 

とってつけたようになりますが、「令和」の時代が私を含む皆さまにとってよい人生を過ごせるように、お祈りいたします。

 

BGM:シューマンヴァイオリン協奏曲

   ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)

   ニコラウス・アーノンクール指揮

   ヨーロッパ室内管弦楽団