shiroyakoの日記

思いついたことを徒然に

20220110:「死刑」について

 明けましておめでとうございます。白野狐です。今年こそ良い一年を、と思いますが、コロナが再拡大するようで、どうも幸先が良くありません。新聞テレビなどの報道でも「感染者が増加」というだけで、頑なに「なに株」とはいいません。デルタ株とオミクロン株ではずいぶん対処がちがうと思いますが。私ども庶民としては、一昨年から続けてきたこと、「外出を控えて、うがい手洗いを欠かさない」ぐらいしかできることはありません。とりあえず、この世界に生きる皆様のご健勝をお祈りして、新年のご挨拶とさせていただきます。

 

 さて、今回のお題は「死刑」です。新年早々縁起がよろしくありませんが、思うことができたので一文といたします。と、申しますのも最近、電車のなかで刃物を振り回すとか、火をつけるとかする人がたくさん(このばあい、ひとり以上は「たくさん」と表現するのが適切でしょう)でてきて、警察につかまると「死刑になりたかった」と打ち明けるそうです。どうも「死刑」が「自殺の手段」として認知されつつあるようなのです。

 

 最初にお断りしておきますが、私は「死刑存続派」でも「死刑廃止派」でもありません。実際のところ、「死」がなんなのかわからないので賛成も反対もしようがない。「死」は避けようもないことなので嫌がってもしかたがありませんが、急いですることでもなし、なによりも死ぬときに「痛い」とか「苦しい」とかが何よりもいやです。定義どおり「死ぬほどの痛みや苦しみ」です。これは怖い。怖いですが、ただそれだけです。だれか、「死」とはこれこれこういうことなので、「死刑」に「賛成」あるいは「反対」と私ども庶民にもわかりやすく説明していただけるとありがたいのですが。

 

 ということで、本質的な観点からは「死刑」に「賛成」も「反対」もできないのですが、あとは実用上の観点だけです。たとえば、「行政府に死刑のような権限を与えることの賛否」については、司法制度の公正さに対する信頼によって決まります(そのはず)ですから、信頼するかどうかという「個人の問題」に還元されてしまって議論は深まりません。

 

 今回、指摘したいことは、「死刑を自殺の手段とする」ということは、死刑制度にとっては「思わぬ伏兵」だったのではないでしょうか。これを防止することは簡単でつまり「死刑廃止」です。「死刑になるためのハードルを上げる」では「死刑になりたい人」がますます凶悪になるだけで効果はのぞめないでしょう。

 

 最近は、私ども庶民にとって、生活は苦しくなる一方ですから、「死刑によって自殺したい人」がぞろぞろ現れても不思議ではありません。これをコロナや大地震や富士山噴火と同様の「天災」と受け止めることはできませんから、「対処できる人」に「適切に対処」していただきたいものです。期待できませんが、期待しています。

 

 新年早々、暗い話題ですみません。今年もなんとか乗り切ってゆきましょう。この世界に懸命に生きる皆様に祝福ありますように。

 

BGM:モーツァルトホルン協奏曲第1番

   アラン・シヴィル:ホルン

   ルドルフ・ケンペ:指揮

   ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団